食の現場から

厳しい人<一> ―意味がある素材―

独立してから、四半世紀が過ぎました。

右も左もわからず、この仕事で食べていけるのだろうかと不安だった頃、何人もの「厳しい人」に出会いました。その厳しさに戸惑い、打ちのめされながらも、多くを学び、少しずつ今の自分が形づくられてきたのだと感じています。

前職では、料理家のアシスタントを13年務めました。仕込み、撮影準備、撮影の進行、原稿作成や校正まで、ほとんど一人で担当していました。アシスタントとしては、それなりに務めていたと思います。

その頃、長くご一緒していた女性編集者がいました。担当の料理家がいらして、その方と長年組んでおられたベテランの料理編集者です。短髪で、マラソンを日課にする、快活でまっすぐな方でした。

基本的には穏やかなのですが、仕事に対してはとても誠実で、疑問に思ったことは曖昧にせず、きちんと言葉にされる方でした。こちらが言葉に詰まると、そのまま問いを重ねてこられる。仕事をご一緒するたびに、私は緊張していました。

特にレシピについては、「どうしてこうしたの?」と、よく理由を尋ねられました。経験の浅い私は、すぐに答えられず、「すみません、調べます」「後ほどご連絡します」と、いつも恐縮しながら対応していた記憶があります。

独立して間もない頃、その方から仕事の依頼をいただきました。電話を受けたとき、受話器を持ったまま直立し、見えない相手に向かって深くお辞儀をしていたことを覚えています。

初めてご一緒したのは、女性誌の野菜料理の連載でした。主菜と副菜を提案する企画で、大御所の先生方に混ざって担当することになりました。3〜4か月に一度の撮影とはいえ、経験も浅く、料理研究家としての振る舞いも、撮影の段取りも、まだ手探りの状態でした。

「小田さんの料理、楽しみです」

そう言っていただけることが、当時の私には大きなプレッシャーでもありました。

撮影が始まると、その編集者から次々と質問が飛んできます。

当時のキッチンは、マンションの小さな一室。アシスタントもまだ不慣れな中で、ひき肉に材料を混ぜていると、「今、どうやって混ぜたの?」と聞かれる。生姜とねぎを入れると、「どちらか一方ではだめなの?」。揚げ焼きの肉を返せば、「どうして今返したの?」「衣が残っているけれど、どうするの?」と続きます。

質問に答えながら、調理を進め、盛りつけをし、さらにアシスタントに指示を出す。終わる頃には、ぐったりと疲れていました。

当時は、ハーブやスパイス、洋野菜を取り入れた華やかな料理が誌面をにぎわせていました。海外で研鑽を積んだ料理家や、新進気鋭の方々のページは色鮮やかで、どこか“今らしさ”がありました。

私も何か取り入れなければと考え、ハーブを使うようになりました。

ところが、次の撮影で、その方にこう言われたのです。

「小田さん、そのハーブは、この料理に本当に必要?」

「最後にのせたトマトは、ないといけないもの?」

一瞬、言葉に詰まりました。

「私は、小田さんの料理を伝える立場だから、それが必要なのかどうかがわからないと書けないの。必要なら、ちゃんと意味を伝えたい。もし、あってもなくてもいいなら、入れないほうがいいのではない?」

その言葉は、まっすぐに響きました。

私は、それまで「加えること」で料理を良くしようとしていたのだと思います。けれど、その料理にとって本当に必要なものは何か、という視点が抜けていました。

その出来事をきっかけに、考え方が変わりました。

その料理を成立させるために、必要な素材は何か。なぜそれを使うのか。その素材の味や香りは、どのように働いているのか。

余計なものを足すのではなく、必要なものを見極める。

そう考えるようになってから、素材の味わいや風味を、以前よりもずっと注意深く見るようになりました。また、あしらいに頼らなくても、自然と食欲を引き出す盛りつけを意識するようにもなりました。

料理は、足せばよくなるわけではない。

その料理にとって意味のある素材を選び、組み立てること。その積み重ねが、味わいをつくるのだと、あのとき教えていただいたのだと思います。

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