レシピの思考

出汁をとらなくなったわけ-ぶれない味のために-

私のレシピには、だし汁や鶏がらスープが、ほとんど登場しません。

一見すると、和食や家庭料理においては少し不思議に思われるかもしれません。けれど、そこには理由があります。

レシピに「だし汁 2カップ」と書かれていると、私は立ち止まってしまいます。

それは、どの昆布で、どのくらいの鰹節を使い、どれくらいの水でとっただしなのか。人によっては、だしパックでとったものかもしれませんし、顆粒のだしを溶かしたものかもしれない。あるいは、分量も目分量で調整されているかもしれません。

そうした不確かなものを前提に、「2カップ使う」と書くことに、私はどうしても迷いを感じてしまうのです。

十五年ほど前、雑誌の仕事で「セロリのスープ」のレシピを書いたことがあります。メインの料理に添える、軽いスープでした。

鶏がらスープに、薄切りのセロリと千切りの葉を加えてさっと煮る。そう書いて試作をしたのですが、出来上がったものを口にしたとき、違和感がありました。

これは、セロリのスープだろうか。

味の中心は、あくまで鶏がらスープで、セロリはその中に埋もれてしまっている。素材の持ち味を活かした料理とは言いにくいと感じました。

一方で、京都を訪れるたびに、私は「お椀」に心を動かされます。

水と昆布、鰹節で引いただしに、季節の魚介や野菜が丁寧に仕立てられ、漆の椀に収められている。春は木の芽、夏は青柚子、秋は生姜、冬は黄柚子と、香りも季節ごとに添えられます。

「水と昆布とかつお節で引いただし」と言葉にするのは簡単ですが、その味わいは店ごと、季節ごと、料理ごとにまったく異なります。

昆布や鰹節の種類や量、削り方、削ってからの時間、一度にとるだしの量。さらに、そこに加える塩や醤油の選び方によっても、だしは大きく変わります。そこには、確かな技術と経験が必要です。

また、昆布や鰹節は決して安価ではなく、だしを取ったあとの扱いも、家庭では簡単ではありません。油脂を使う現代の家庭料理の流れの中で、調理器具からわずかに入る油さえ、本来のだしの澄んだ味わいには影響してしまいます。

和食が世界的に評価され、「だしをとりましょう」「だしの味で減塩を」といった言葉を目にする機会も増えました。私自身、その価値はよく理解していますし、おいしさも知っています。

それでもなお、それをそのまま家庭にすすめることには、少し慎重になります。

鶏がらスープについても同じです。

鶏がらを下ゆでしてアクを取り、洗い、長時間煮出してスープをとる。丁寧に作れば、澄んだおいしいスープになります。塩分も含まれていない、素材そのものの味です。

一方で、一般的に使われている「鶏がらスープの素」は、塩分やうま味が調整された加工品です。これらを同じ「鶏がらスープ」として扱うことに、やはり無理があると感じます。

実際のところ、鶏がらを日常的に手に入れることは簡単ではなく、大きな鍋を使って長時間煮る環境も、今の家庭には必ずしも整っていません。

だしをとることには、技術だけでなく、時間や道具、材料といった条件が伴います。

もちろん、質の良いだしパックやスープの素を作っているメーカーも多く、私自身そうした企業と仕事をする機会もあります。ただ、塩分や風味、価格の違いによって、料理の仕上がりが大きく変わってしまうのも事実です。

不特定多数の方に向けて、レシピを伝える仕事をする以上、そこにできるだけ「ぶれ」があってはいけない。

そう考えたとき、私がたどり着いたひとつの結論は、だしを前提にしないことでした。

だしをとらない、鶏がらスープを使わないところから、レシピを組み立てる。

素材そのものの組み合わせや、切り方、火の入れ方、調味の重ね方によって、味を立ち上げていく。

そうすることで、誰が作っても、ある程度同じ方向の味に近づけることができるのではないかと考えています。

だしを否定しているわけではありません。

むしろ、その奥深さを知っているからこそ、あえて使わない選択をしているのです。

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